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誰かのために動く時 ⑪

last update Last Updated: 2025-07-17 22:49:11

「張り巡らされた水路の一角に、ヴィクターが好んで使う場所がある。いや正確には、“あった”か。三叉路になっている水流の交点、かつて噴水があった場所の近くだ。道が折れ曲がって地下への傾斜が始まる辺りだな」

 男は視線をアリシアの地図に向けながら、言葉を発した。

「この辺り……だと思う」

 アリシアが男の言葉を聞き終えるのとほぼ同時に、すぐ隣に立っていたセラが地図を指し示した。

「噴水の跡っていうのは、この広場の中央にある枯れた井戸のこと。三叉路の水路は、そこから西と南、そして、もう一つは傾斜を辿って地下へと流れてた」

 アリシアはセラの指す位置に視線を落とした。

「その地下通路に面した店だが、かつては酒場として使われていた。隠れ家として人気を博していたが、今では、もうすっかり忘れ去られている」

 男はそう言って、視線を遠くに向けた。

「仲間が追跡していた時、ヴィクターがそこに入って行ったのを目撃している。今もその場所を使っているんじゃないか。隠れるのに、それ以上の最適な場所はないからな」

「それって、今は居ないかもしれないってこと? これでは、確かな情報とは言えないわね」

 アリシアは地図から視線を上げ、呆れた眼差しで男に目を向けた。

 その声には軽い皮肉が含まれていたが、完全に突き放すほどではない。

「ヴィクターはずっと見張るほどの存在じゃないと思っていたんだ。正直、そこまでの価値があるとは思えなかったからな」

「それでは、その間、あなたは何を追っていたの? グレタの追跡は失敗したんでしょ」

 問いかけは感情を抑えた調子だったが、その奥には鋭い違和感が込められていた。

 ヴィクターを放置し、グレタを追った。それなのに足取りを見失っている……

 アリシアの言葉に、男はわずかに眉を寄せた。

 男は短く間を置いてから、低い声で応える。

「すでに話した通り、グレタは常に五人一組で動いている。ヴィクター以外は手慣れた連中だ。追跡するのが難しいというのもあった。だが、それだけじゃない。どうも、その他にも禁足地の内側で活動している連中がいるようなんだ」

「それは、私の友人、二人以外でってこと?」

「ああ、そうだ」

 その言葉に、アリシアは息を呑んだ。

 驚きと緊張が混じった視線が地図へ吸い寄せられる。

「禁足地って、そんなに簡単に入れるところなの?」

「いや、よほどの腕がない限り
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